
日本が鎖国をしていた江戸時代末期、金沢を基盤に世界の海域をまたにかけ、「海の百万石」と称された伝説の豪商。『銭五』こと『銭屋五兵衛』こそ、その人の名です。
銭五は安永2年(1773)、加賀国宮腰(現・金沢市金石町)に生まれました。この地で代々手広く商いをした「銭屋」の7代目当主として、17歳の若さで家督を継承。39歳の時に中古の船を買い、海運業に転じたことから一気に人生が開け、当時、北前船の重要な中継港でもあった宮腰を本拠地に全国各地へと販路を拡大。50歳代後半にして迎えた全盛期には、大小200艘以上に及ぶ北前船を所有していたともいわれる大海運業者になりました。
銭五といえば、鎖国体制下で厳禁とされた外国との密貿易説でも有名です。一説には、北はロシア・エトロフ島、南はオーストラリア・タスマニア島、はたまた英国やアメリカ合衆国にも及んだという諸外国との貿易は、莫大な献上金を見返りに加賀藩も黙認していたといわれています。そうして国内外の交易により巨額の富みと栄誉を得た銭五ですが、その地位から一気に転落することになった事件は起きました。銭屋が藩から請け負った河北潟干拓工事のさなか、死魚による中毒事故が発生し、それが銭五らの仕業だという噂が流れたことで銭屋は財政没収・家名断絶となったのです。あくまでも噂だと否定した銭五も獄中、80歳の生涯を終えました。幕府が鎖国を改め開国する、わずか2年前のことでした。
この幕末の一件は、未だその真偽が明らかではありません。けれでも、事件直後“外国との密貿易で巨利を得た悪徳商人”という銭五に対する世間の酷評は、明治維新後 “鎖国体制下で海外交易を試みた先駆者”という評価に一転したことは事実です。幕藩体制から近代社会への大きな変革の時代、銭五が実現しようとしたことは一体何であったのでしょうか。
現在、金沢市金石に建てられる銭屋五兵衛像は、西洋風の合羽を羽織り、後ろ手には愛用していた望遠鏡を握りしめるといういでたち。その視線は、ただ彼方まで広がる海に向けられています。
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